本日の心理学・名言1321-2

@人はともすると、我さえ良くば、という心を使いがちです。それは、神様の思し召しに反する心遣いであることを心遣いであること知らないからです。神様は、人間が互いにたすけ合って、陽気ぐらし(注1)をすることを望まれているのです。
自己の利益のみにとらわれた考え方から、真理にそぐわない多くのほこり(注2)の心遣いが出てきます。
ほこりの心遣いとは、本人もそれとは気づかない程度の、ごく些細なものです。

例えば掃除の行き届いた、見た目には塵一つ無いような部屋でも窓から差し込む陽の光を通すと、無数の埃が浮遊しているのが分かります。どこにこれほどの埃があったのかと不思議に感じます。そしてやがて、それは障子の桟(さん)や机に積もります。

心のほこりも同じで、私たちはややもすると、物欲について十年、二十年のあいだ、ほこりを払わずに積もらせていることがあるので、こうして、知らぬ間に積み重ねたほこりが種となり、病気や事情(問題)となって芽生えてくることを、いんねん(注3)というのです。

神様の思し召しを定規として、通り来たった自己の道を反省し、また、日々の心のほこりも払いつつ、いんねんを納消し、神様の目的である陽気ぐらしに向かって、歩みを進めていく事が大切です。
by話の台第六集

(注1)陽気ぐらし:陽気ぐらし:それぞれの個性を持った人間が、互いの良いところをのばし合い、足りないところを補いあって、たすけたり、たすけられたりしながら共に生き、何を見ても、いつ、どこで何が起こっても決して不足なく、陽気に明るく受け取ってゆく、心の姿勢で暮らすこと
(注2)ほこり:人間の心に宿す神様の思し召しにあわない心遣いのことであり、具体的には、八つのほこり(惜しい、欲しい、憎い、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢)や嘘、追従(おべっか)、陰口、勝手、無理のことで、すぐに掃いたり、拭いたりすれば無くなるという意味で使われています。
(注3)いんねん:本来は仏教用語で、直接的原因(因)と間接的条件(縁)とによって、様々な結果(果)を生起することを意味しますが、ここでいう「いんねん」は仏教などの因果応報とは違い、その奥に「陽気ぐらし」(注1)へと導こうとされる神様の親心があることを意味しています。

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