ゲシュタルト・セラピー~~~~(概略)

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ゲシュタルト・セラピー:(自己への対話)背景:気づきのトレーニング

ゲシュタルト・セラピーの最大の長所は
その実験的な性格であると言われています。
「ゲシュタルト」とはドイツ語で「かたち、全体のかたち、全体性」を意味する言葉です。
私たちが何かをじっと見つめて視線が固定(固定~図柄&その他~地)されない限り、目を通じて行われる身の回りの世界の知覚は、私たちの興味と注意が一つのものから他のものへと移るに従って絶え間なく変化しています。
私たち一人一人は、自分の意識の全体の中から、明確で可能性に富んだ実態(図柄)を作り出す能力を持っているとゲシュタルト・セラピストは考えています。
ところが、私たちはしばしばこの自然の流れを妨げ、それによって自分の人間らしさを失い、堕落してしまうのです。
ゲシュタルト・セラピストは、なぜ私たちが今この瞬間に自分の気づきを制限することを選ぼうとするのか、そして、どうすれば自分と自分の生きる世界に対する気づきを広げることが出来るかを自分自身で理解するように助けます。このように、ゲシュタルト・セラピーはしばしば「気づきのトレーニング」と呼ばれています。

ゲシュタルト・セラピー:(自己への対話)要約11項目
ある意味で、ゲシュタルト・セラピーはトレーニングであり、自己啓発です。
患者と治療者とは、ともに同じ地盤に立ち、
同じ共通の問題を抱える正常な人間として、
ある問題を持っている患者に
ゲシュタルトの成長の考えを適用して、ある変化を達成する。
これがゲシュタルト・セラピーの重要な考え方で、
患者と治療者を人間として区別しません。
1.      治療者に奇跡を期待し、依存し、何かしてもらおうとする態度からは、自己成長の変化は生じてきません。

  1. さて、ゲシュタルトという言葉についてですが上記で申し上げましたように、「全体性」、「全体の形」ということになり、全体の像―――部分の総和を越えた全体としての「かたち」を意味します。例えば、人間を把握する場合、その患者の語る言葉だけではなく、非言語的な手がかり、表情,姿勢、ジェスチャーなども含めて全体として直感的につかめるものがあります。これがその人のゲシュタルトということになります。
  2. ゲシュタルト・セラピーの大部分は、集団療法として実施されますが、これには色々な理由があります。ゲシュタルト・セラピーのテクニックは、教育、カウンセリングの場面では、個人面接の形で応用することも出来ます。集団を用いる第一の理由は、同時に多くの患者を指導できるという実用的なものでありますが、最も重要な理由は、小集団を実験の場として、そこで、人間関係の実験が体験できるからです。治療者は、色々な実験を提案し、患者はそれを自発的に実行し、自分自身の行動変化をためしてみることが出来る。その場で、「今、ここ」の変化を体験してみると、そのうち変わりますという約束とはまったく別の効果が生じます。
  3. ゲシュタルト・セラピーの特色として言語の意味論上の区別の第一に、「~したい」、と「~すべき」の区域があります。ゲシュタルトでは我々の中で
    「~すべきだ」と思っていることと「~したい」思っていることを厳密に区別して、徐々に私は一体何がしたいのかに気づいていきます。「~すべき」の場合、その基準となるものは、実は自分のものではなく、親から取り入れられたもの、押し付けられたものが多いからです。
  4.  もう一つ、ゲシュタルトの基本をなすものに、「今」があります。「今」とは、「今、この瞬間」のことです。「今、ここ」の感じをグループの中で、次々と話し合っていく時、5分前のことはすでに古い歴史のように「今」でなくなるのが実感されます。
  5. 今まで意味上の視点を強調しましたがゲシュタルト・セラピーの主要な部分は非言語的な手がかりに依存しており、体験学習よって伝達する以外は伝えにくいものであるということを強調しておきます。
  6. 次に「なぜ→なぜなら」ゲームについて説明します。「なぜ」という問いに対しては自己正当化が始まりやすいのです。そこで、「なぜ」を「どのように」に置き換えてみます。
    ゲシュタルトはこの「なぜ」を「どのように」することを強調します。
    「どのようにしてそれは起こったか」の質問に対しては、より事実に基づいた答えが得られます。「なぜ、そんなことをしたのか」という質問に対しては想像による答えが出やすいのです。
  7. 次に質問そのものの使用にについて、ゲシュタルト・セラピーでは、
    質問の大部分は変形された意見表明と捉えます。
    それも、否定的な、敵意のある意見表明が質問の形態をとりやすいのです。
    このような質問を避ける最も簡単な方法は、
    質問の中に「私は・・・・」で始まる言明に言い換えてもらうことです。
    もう一つ、似たような表現のぼかしに、
    一般化の問題があります。
    「何となく」「人間というものは」「人々は」「人間誰しも」というのは一般化された表現です。
    一般化された表現を「私は・・・・」という表現に言い換える実験をしてみると、驚くほど大きな違いが出てきます。それは単なる意味の違いではなく、言う本人のフィーリングを含めた「あり方」の違いでもあります。
  8. ゲシュタルト・セラピーでは「~できない」という言葉を嫌います。
    大部分の「~できない」は「~したくない」に置き換えられるからです。
    「~できない」という言葉は、責任を取らないことの表明なのです。「~したくない」と表せば自己責任が明確になります。
  9. 大部分の解釈はあなたが想像していることの投射であります。
    例えば
    「あなたは私に対しては怒っているに違いない。」
    という解釈を「私の想像では、あなたは私に対しては怒っているようです。」と言ってみる。
    想像したことだから、
    相手は私に対して受容するか拒否するかの自由を持つ。
    セラピストが自分の解釈を押付けないということは、信頼関係を樹立し、セラピーを成功させる重要なポイントとなります。
  10. 最後に、ゲシュタルト・セラピーの目指す成熟とは環境からの支持を徐々に脱却して、自分で自分を支持する能力を身につけることです。
    ゲシュタルト・セラピーのモットーである「私は私」ということですが、
    この意味は利己主義や孤立無援とは違い、
    必要なことを他者に依頼することや、自発的に他者を愛することも含むものなのです。しかし、この場合の「愛」とは「しがみつき」ではありません。
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ここで、
ゲシュタルト哲学を簡明に九つの原則として紹介します。

第一原則:今に生きよ。過去や未来ではなく現在に関心を持て。
第二原則:ここに生きよ。目の前にないものより、目の前に存在するものを取り扱え。
第三原則:想像することをやめよ。現実を体験せよ。
第四原則:不必要な考えをやめよ。むしろ、直接味わったり見たりせよ。
第五原則:操縦したり、説明したり、正当化したり、裁判しないでむしろ表現せよ。
第六原則:快楽と同じように、不快さや苦痛を受け入れよ。
第七原則:自分自身のもの以外のいかなる指図や支持を受け入れるな。
第八原則:あなたの行動、感情,思考について完全に自分で責任を取れ。
第九原則:今のまま、ありのままのあなたであることに徹せよ。

 

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ゲシュタルトの方法論は三つの部分について
討議することが出来ます。
@コンタクト(触れ合うこと:接触)
@プロセス(刻々の過程)
@エクスペリメンテーション(実験すること)の三つです。

*コンタクト(接触):クライエントがセラピストと、どのような触れ合い(ラポール:信頼関係)を得ているかということから治療上の豊富な材料を導き出すことが出来る。

*プロセス(刻々の過程):ゲシュタルト・セラピーのもう一つの特色は、殆ど絶え間なく、刻々のプロセスに注意することことです。
プロセスとは、クライエントが何かしているとすると、それを「どのように」今ここでやっているかに焦点を当てることを指します。
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ここで焦点を当てた非言語的な「どのように」を「図柄」、
その他を「地」と呼びます。

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何か問題がある時には、それは非言語的な「どのように」が「図柄」として表現されている場合が多く、それを拡大(おおげさに)することによって、今現在の気付きを促します。
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*エクスペリメンテーション(実験すること)
そして、最も独自のゲシュタルトらしい特徴である実験を試みることです。
すなわちセラピーの安全な状況中で、過去の同じような体験を普段とは違った行動、感情、思考をやって試してみることです。
ここにおいて、この「図柄」と「地」との関連を修正することにより、問題解決に応用するのです
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ゲシュタルト・セラピー:図柄と地~基礎本文

私たちは、可能な数多くの気づきのすべてののうちで、(通常ある一定の時には)ほんの少しのものにしか焦点をあわせようとしません。
この特定の気づきが「地」のすべての気づきの中から
際立つ「図柄」となり、
その他のものは「地」または「背景」に溶け込んでゆきます。
周りの環境という「地」の中から、
はっきりと目立つ「図柄」を形作ることが出来るかどうかが、
欲求を満足させる為に環境を利用し、
自ら成長し続ける為の私たちの能力を推し量る尺度となります

次の実験は、あなたと環境との相互作用の方法を探求する助けとなるでしょう。

実験 きづきの連続
あなたの気づきをもう一度探りましょう。
現れてくる気づきを内側、外側、あるいは中間の区域のものというように分類して下さい。
「私は・・・に気づいています」という文章で始めて下さい。

例)
「今、私は自分の腕時計の上の光の輝きに気づいています」
(外側の区域)
「今、私は何時だろうかと思っています」(中間の区域)
「今、私は腕時計を手にとって、指に冷たい感覚があるのに気づいています」(内側の区域)

一つの区域から別の区域へと自由に注意を向けながら実験を続けて、気づきが連続的に現れ、その後、絶え間なく変化し、組織化されないパターンの中に遠ざかってゆく様子を観察して下さい。

「私の中では多くのことが起こっていて、
私の外、つまり、私の環境の中でも、多くの事が起こっています。それらのことに対して一回に一つずつ焦点を合わせることが出来ないなら、私は自分の世界に対処したり、それを理解することが出来なくなります」

私たちは絶えず注意を集中しています。
そして、
それをする度に「地」から「図柄」を
浮き上がらせているのです。
図柄も地もお互いに存在することは出来ません。
さらに、
図柄と地との相互の関係が私たちの世界に意味を与えるのです。
注意を一つの対象から他に移し、それぞれの対象の間、及びすべての対象と地のとの間の関係を発見するという能力によって、
私たちは、自らに与えられた様々な変化に富んだ知覚を理解することができるのです。

ゲシュタルト・セラピー:
図柄と地~感情のシグナル&感情の体験を自身に許す

感情のシグナルを自身に許す

私たちが感情的な意味で「感じる」事は、私たちの身体の中で肉体的な意味で経験することの中に現れます。
すべての感情に関連する、一定の肉体的な感覚というものが存在するのです。
私たちは「腹を立てて紅潮」し、「恐怖で身体が強張り」、
「興奮して身を震わせる」のです。
このような反応は、私たちの動物的な発達の名残で、
感情を常に正直に表しています。
自分の感情(そして、その結果自分自身)を理解しようとするなら、このようなシグナルに耳を傾けることを学ばなければなりません。
私たちの感情の世界を理解したいなら、身体の感覚に注意を集中することに時間を費やすことが必要です。
はっきり図柄が現れるまで待ち、その図柄に反応し、それから次の図柄が地から出現するようにするのです。
これは自然な過程です。
この過程が絶え間なく続いてゆくことに注意を払う以外、取り立てて意識的な行為をする必要はありません。

ところが、
実際にこれを実行してみると難しい場合がよくあります。
その原因は、私たちが中間の区域を誤って用いて、積極的にこの過程の邪魔をし、身体から送られるシグナルを歪め、その結果、混乱に陥るところにあるのです。
例えば、自分の上司と話すといつでも首がこわばる人が、首の状態を無視したり、関節炎のせいにすることがあります。
もし、この人が上司に対する憤慨や怒りの感情に気づいていないなら、自分に首の痛みを与えているのは上司なのだとは決して考えないでしょう。
このような防衛をなくすためには、首のこわばった状態に注意を払わなければなりません。
そうするとこの人は突然、かつて何らかの理由で憤慨したり怒ったにもかかわらず、その感情を表現することを自分に許さなかったという昔の記憶を思い出すかもしれません。
憤慨や怒りは首の筋肉を緊張することで、
文字通り押し殺されたのです。
以後、権威ある人に対するすべての憤慨の気持ちを同じように扱うことで、この人は新しい感情と同時に古い感情も抑圧しているのです。
やがて、このような感情を肉体に置き換えることが習慣となり、自分がいつもそうしているとは気づかなくなります。

これは、あまりにも単純化した例ですが、この人が怒りを表すことを慢性的に避けることで、肉体的に自分自身を否定しているということが、ほぼ明らかになったっと思います。

更に、ほんとうの意味で、身体こそが人なのです。
望ましくない感情をうまく抑えるために、慢性的に、そして、無意識のうちに費やしている膨大な量のエネルギーを、もし解き放つことができるなら、それをもっと創造的で健康の増進に役立つように用いることができる、とゲシュタルト・セラピストは信じています。

感情の体験を自身に許す

身体に起こる感覚に焦点を合わせると、一見説明のつかない様な感情の波に突然襲われることがあるかもしれません。
でも、その過程をそのままにしておくと、昔の記憶がもう一度思いがけなく現れることがあるのです。
私たちがいったん自分の感情を抑圧していることを発見し始めると、このような(抑圧された)行動様式を続けるか否かという選択があるという認識がもたらされます。

ゲシュタルト・セラピー:
「忘れた」感情を完全に経験することによって、
思い出した記憶を統合すること

あまりにも辛かったので「忘れた」感情をいったん苦痛として完全に経験することによって、思い出した記憶を統合することを経験し、それを避けなければ、苦痛はやがて薄れて思い出を単なる記憶として受け入れることが出来るようになります。
地(背景)から出現するそれぞれの図柄(焦点を合わせたものごと、あるいは記憶)には、永続性はなく、一つが消えるに従って他のもの(図柄)が現れるからなのです。
もし私たちが辛い経験や思い出から身を守る為に、このような図柄に意識を集中することを拒むと、かえって知らず知らずのうちにそれを(一つの図柄)を永続させてしまうのです。
もし私たちがある感情を抑制すると、このような経験と解消は起こりません。
その場合、感情というものは実際に体験し、その時点で終わるものではなく、いつもこれから体験するものとなります。
私たちは気づかないかもしれませんが、感情の気づきを止める為には、努力が必要なのです。

ゲシュタルト・セラピー:固定化

私たちは自分の全ての側面や感情を、
感じたり体験できない為に、自分自身を固定化してしまいます。また、周囲の世界の細かい部分一つ一つを見ないで言葉の産物である一般化や抽象化だけを見ることによっても固定化は起こります。
問題は私たちがこの抽象化の能力を誤って用いることです。
物の一般的な使い方や形を見ることにあまりにもうまくなってしまって、一つ一つの特性を見なくなってしまうのです。
固定化は私たちの柔軟性と適応能力を制限します。
この常に変化する世界で生きる体験と興奮をつまらないものにし、時には、私たちに「これは前にしたことがある」
と信じ込ませるのです。
しかし、時の流れの中のすべての瞬間は新しく、
ある意味で私たちが行うすべてのことは、初めての経験なのです。

ゲシュタルトの気づきのトレーニングは、私たちがある瞬間に感じることそのものと、外の世界で起こっていることそれ自体に私たちの気づきの焦点をあわせることをうながして、固定化された行動様式を崩すことを目的としています。
私たちはある特定の瞬間に自分が誰であるかを見るだけでなく、その瞬間に自分がどのように万物の体系に組み込まれているかをも見なければなりません。
このようにして初めて、私たちは自分自身と周りの世界にはっきりと反応することができます。しかし、これには危険が伴い、私たちは自分の行動の責任を取らなければならないのです。

ゲシュタルト・セラピー:「未解決の問題」

「未解決の問題」という概念が、ゲシュタルト・セラピーでは重要な位置をしめています。
ゲシュタルトの取り組み方は私たちの現在の行動に焦点を合わせていますが、だからといって、過去の重要性を否定するものではありません。
私たちは人生の色々な場面で、特に子供の時代には、
自分自身のある面を十分に表現できないような立場に置かれることがあります。
例えば、多くの親は子供が怒りをあからさまに表現するのを許さないものです。
親の愛がなければ、文字通り餓死するかもしれませんから、正面切って反抗できないのです。成長するにつれて、両親に対する直接的な恐れや、拒絶に対する不安は次第に薄れるので、私たちがもっと自己表現をするようになると思われるかも知れません。
しかし、その段階に達した時、私たちは自己表現のメカニズムの源をわすれてしまっている事が多く、自分たちの使っているメカニズムに気づかなくなってしまいます。
反応は習慣的になり、子供の頃に両親と付き合ったのと同じやり方で、他人と交流するのです。
このような付き合い方は、しばしば大人にはふさわしくなく、
私たちと愛する人たちとの良いコミュニケーションの妨げとなります。
本当に文字通り過去に生き続けるのです。
こうした状況に対するゲシュタルトの処方箋は、
過去を詮索するのではなく、
現在どのようなやり方で自分自身を抑圧しているかに注意を払う(気づく)ように励ますことです。

私たちの想像力は大変強く、多くの場合、現実の生活では決着できないことを、想像の世界の中でつけてしまうことができます。
ゲシュタルト・セラピーが強調するのは
私たちが成長し、変わろうとするなら、経験の内容ではなく、
それを処理する方法に注意を払う(気づく)ように促すことです。

ほとんどの人は成長過程のどこかの時点で、もし自分たちがもっと良い親を持っていたなら、今よりずっと幸せだっただろうか、などと感じるものです。
そうした思いが正しいかどうかはともかく、そう思い続けることによって、その人は自分の状況を変えることは不可能だと思い込んでしまいます。
このような人々は、両親に対する憤慨の気持ちを持ち続け、現実に生きることから生じる危険を回避する口実としてこれを使います。
この未解決の問題を処理して初めて、彼らは両親を許し、両親に同情できる段階に達し、さらに、自分の想像的なエネルギーを解き放って、それを現在の新しい状況に対処することに向けることができるのです。

ゲシュタルト・セラピー:ゲシュタルトコミュニケーション

「正直なコミュニケーション」と、
「衝動的な正直さ」は別物です。
後者は他人に対する攻撃を弁解するのにしばしば用いられます。
このような正直さは、冷酷さを否定する方法となることがあります。
つまり怒りや、冷酷さをそのまま表現するかわりに、
「ちょっと正直に言わせてもらえば」
と付け加えてそれを和らげることができるのです。
真実のコミュニケーションには、私たちの言うことが引き起こす可能性のある結果に対する気づきと、
私たちが感じたり、経験することは単に一人の人間の見方に過ぎないという認識が伴います。
何か重要なことを誰かに伝える場合、状況が適切であり、相手がそれを聞くことができる状態でなければなりません。
他人と対話する時、私たちは自分自身と相手とをはっきり見ることが出来なければなりません。
投射、取り込み、反転、はぐらかしは、すべてはっきり見ようとする私たちの能力を妨げます。
そのような回避とそれ対する責任を取らない限り、
私たちは真実のコミュニケーションを抑制し続けるでしょう。
私たちが回避のうちいくつかを行うとき、
他人との表面的な、「役を演じる」関係しか結べません。
他人に自分をほとんど見せないで、
「完全な人」として行動するだけになるのです。

*     投射: 他人も自分の態度,感情などと同じものをもつと決めてかかる傾向で、自分自身承認しがたい考え,感情や,満たしえない欲求をもっている場合に,それを他人に帰してしまうような 行為
*     取り込み:責任を回避するために他人の価値観や、意見や、議論を、自分自身の批判能力で分析することなく、そのままとうとうと述べる行為
*     反転:対人関係からの回避から生じるもので、好ましくない感情を他の人に向ける代わりに、自分の中に向ける行為
*     はぐらかし:回避の一つの方法として、自分を脅かしたり、不快な気分にさせる人間関係を避けるために、通常、何かが起こらなかったとか、存在しないように振舞うこと

ゲシュタルト・セラピー:まとめ

個人的な成長は時として痛みを伴うものであり、時々問いかけてみるべき適切な質問は「それはするに値するだろうか」です。
得られるものが、恐れや痛みを伴う思い出や私たち自身の苦しみを引き起こす側面を回避せずにはっきり見ることによって恐怖を取り除く時に生じる痛みに値するかは、それが終わって見なければ分かりません。
しかし、こうした経験をすると、私たちが普段、常に自分の本当の気持ちを抑えたり避けたりすることによって、どれほど大きなものを実際に失っているかに気づくのです。

 

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